WORLD SOCCER GRAPHIC EPISODE in Belgrade Dervy

ベオグラードダービー

2001年5月号 Vol.94

EPISODE in Belgrade Dervy

分がいいのはレッドスター
1947年1月5日に行われた第1回のベオグラード・ダービーから、2001年3月7日の115回までの勝敗は以下のとおり。
レッドスター・ベオグラードパルチザン・ベオグラードの115戦でレッドスターの50勝33分32敗、アウェイ戦は57戦で20勝15分22敗。これはリーグ戦のみの戦績。これ以外にも、ユーゴスラヴィアカップや親善試合などで数多くの対戦があった。




めったにない永遠のライバル間の移籍
パルチザンのゲームメーカー、モムチロ・ヴコティッチは、ベオグラード・ダービー出場25回という最多出場記録を持つ選手だが、かつてレッドスターから移籍の誘いを受けたという。若きヴコティッチが父親に意見を求めると、父は短く、きっぱりと答えた。
レッドスターへ行くのはいいが、家には二度と戻れないぞ」。
 それでも、両チームでプレーした選手はわずかながらいる。
なかでも有名なのは、パルチザンセンターバック、ヴェリボル・ヴァソヴィッチだ(1960年代にユーゴスラヴィア代表暦32回)。ヴァソヴィッチは後の1971年、ヨーロッパ・チャンピオンズカップに優勝したアヤックスのキャプテンも勤めている。ヴァソヴィッチはベオグラード・ダービーに12回出場、その内パルチザンで11回、レッドスターで1回の出場を記録。
「クラブの経営陣と意見の相違があったので、レッドスターと契約をした。レッドスターでダービーに出場したのはたった1回で、その試合には勝った。ちょうどその試合の前に、パルチザンから戻ってくるよう誘いを受けていたんだ。私は怒った。ただでさえ私が勝ち星を売るっていうゴシップが流れていたからだ。脅迫状も受け取った。ダービーマッチに出場したら殺すっていうね。私はパルチザンの首脳陣に、レッドスターが勝ったら、パルチザンに戻る。レッドスターが負ければそのまま残ると言ったんだ。私はパルチザンを愛してはいたが、レッドスターで勝てたことはうれしかった」とヴァソヴィッチは回想する。
おもしろいことに、ヴァソヴィッチは1980年代にレッド・スターの監督になり、1987−1988年シーズンに、”ピクシー”ことドラガン・ストイコヴィッチを擁したチームでリーグ優勝を飾っている。




39度の高熱をおしてプレーしたピクシー
 現名古屋グランパスエイトドラガン・ストイコヴィッチは、ベオグラード・ダービーに6度出場し1得点。だが得点と認められなかったすばらしいゴールの逸話が残っている。
「われわれは開始2分で、ドラギザ・ビニッチ(編集部注:のちに名古屋グランパスエイトでプレー)のゴールい¥により、1−0とリードした。前半の半ば、ミロイェビッチが敵陣深くにいた、ストライカーのボラ・ツヴェトコヴィッチ目がけてロングパスを送った。だが、パルチザンのキーパージェカノビッチがペナルティーエリアの外でボールをインターセプトし、ハーフウェイラインまで蹴り戻した。そのボールがが僕のところに来たので、僕はためらうことなくボールを蹴った。50メートルはあったろうな。ボールはゴール前に戻れずにいたゴールキーパーの上を越えて、ディフェンダーのラダノヴィッチの上を越えた。ラダノヴィッチはボールと同様、ゴールネットまで走り込んだのだ。だが、そこで喜びの代わりにショックが襲った。主審が、副審の話を聞いて、オフサイドを宣言したのだ。誰もなぜゴールが認められないか理解できずにいた。テレビ局はどこも、そのゴールシーンを流した。認められなかったが、実に美しいゴールだった(編集部注:試合は結局1−1の引き分けに終わった)得点にはならなかったが、あのゴールは僕の好きなゴールの一つだ。それに、あの試合はそれ以上に印象深いんだ。なにしろ39度の熱でプレーしていたんだからね。それで、あのダービーマッチは他の試合よりも記憶に残っているんだろう」とピクシーは回想している。



首相の仲裁
115回目のダービーは、レッドスターパルチザンの対戦の歴史のなかでもっとも異様な試合の一つとなった。2000年10月14日の試合は、暴れまくるファン(むしろフーリガンと言うべきか)がピッチに進入したせいで、開始わずか3分間で中止となった。
 混乱はレッドスター・スタジアムの南スタンドで始まった。試合前にクラブ首脳陣との意見の衝突から試合をボイコットすると宣言していたパルチザンのサポーターがまず、「モンゴメリー、失せろ」と唱え始め、それから椅子を壊して、破片を陸上トラックに投げつけ、さらにグラウンドに降りてきて、警備員やカメラマン、そしてレッドスターの一人の選手を襲った。
 その後、当然のことながら、北スタンドのレッドスターのファン(その多くはまたもやフーリガンだった)が、反撃に出た。グラウンドに降りてくると、パルチザンのファンを追い払ったが、同時にレッドスターフーリガン数人がパルチザンのリュサビ・ツンバコヴィッチ監督を襲ったのだ。警備員や警官がグラウンドからファンを追い払ったあとも、試合が再開できなかったのは、パルチザンの監督や選手を攻撃したためだった。
 この騒ぎで35名が負傷したが、警察が任務をきちんと果たしていれば防げたはずのことだった。警官はスタジアムの周囲とスタンドにはいたが、いつものように陸上トラックに沿って輪をつくるように並ぶことはしなかった。警察がなぜそういう対応に出たのかというと、ダービーマッチが行われたのが、「10月5日革命」(9月の大統領選後、レッドスターのファンも参加した大規模なデモが行われるなどして、スロダンミロシェヴィッチ政権が倒された)のわずか9日後だったというのが理由になるだろう。いずれにしろ、クラブは観客なしで2試合を行うという甘い制裁を受け、ダービーマッチは2月17日に変更となった。
10月14日のこの騒ぎはホームチームレッドスターに大きな責任があると思っていたパルチザンは、この結論に不満を覚えた。しかし、1部クラブ組合の懲罰委員会は評決を変えず、2月17日の試合日はそのままとなった。それに対し、パルチザンは出場しないと繰り返した。
 さて、この「終わりのない物語」の次なるエピソードは、信じられないかもしれないが、試合開始わずか3時間前の中止の決定についてだ。
 表向きは安全面の不安が指摘されたが、実はパルチザンが出場を拒んだためだった。ついに、セルビアのゾラン・ジンジィッチ首相が事態の収拾に乗り出し、レッドスターのドラガン・ジャイッチ会長を招いて、2時間で問題を解決した。平和が戻り、とういうよりは両者が妥協に達し、試合は3月7日の開催が決まった。115回目のダービーはまさにその日に行われ(大きな事件はなかったが、警官が陸上トラックの周囲にずらっと並んだ)、4万人の観客が集まり、レッドスターが2−0で勝利した。ベオグラードでは、115回目のダービーは史上最長の試合だという冗談まで聞かれた。なるほど、終了の笛が鳴るまでの5カ月あまりかかったのだ。