Football Business3 ユベントス 冒頭部

世界中のスタープレーヤーが名を連ね、眩い光を解き放つカルチョの舞台、イタリアセリエA
しかしその影では多くのクラブが経営難に苦しんでいます
果たして健全なクラブ経営とは?


今回のフットボールビジネスは不況の続くイタリア国内にあって、独自の路線でビジネスを展開するユベントスのクラブ経営を考えます

ユベントスの経営をコントロールする一人の男
ROMY GAI
Chief Sales & Marketing Officer



ロミー・ガイ
「我々ユベントスにとって最も重要な事は的確に現状を捉え、将来に渡る確かなビジョンを持たせる事。答えは簡単ですが実行するのは容易ではありません」



イタリアサッカー界の革命児と称される男ロミーガイ
彼の功績とユベントスフットボールビジネスに迫ります



ユベントス

カルチョの国イタリアが世界に誇る名門クラブ、ユベントス
04−05シーズン国内最多となる28回目の優勝を飾った強豪クラブは、地元志向の強いイタリアにありながらビアンコネロの愛称で親しまれ、全国区の人気を誇っています
また国内のみに留まらず、ヨーロッパ全土、いや世界各国にまでその人気は拡大

日本でも多くのサッカーフリークがユベントスに魅了されています
しかしその人気は自然発生的に生まれた物ではありません
経営陣のたゆまぬ努力の賜物なのです



北イタリアの長閑な工業都市トリノ
イタリア第3のこの都市にユベントスが誕生したのは1897年、以来ユベントスはここをホームタウンとしています


そのトリノの中心地オフィス街の一角にユベントスの本社、ユベントスフットボールクラブ株式会社(JUVENTUS FOOTBALL CLUB S.p.A)があります
世界中から熱い視線を送られるユベントスにしてはお世辞にも大きいとは言い難い3階建てのオフィスビル
しかしビアンコネロ数々の栄光は、ここユベントスフットボール株式会社から生まれたのです


現在こちらのオフィスで働く従業員は80名
フットボール界の現状、そして未来を見据えた経営計画の下サッカービジネスに力を注ぐスタッフ達
その中にユベントスの心臓部ともいえる男が居ます


ユベントス株式会社に欠かせない男
その手腕で企業としてのユベントスを統率する真の実力者、彼の名はロミーガイ


ロミーガイがいかに重要なポストに就いているかはユベントスの組織図から見てとれます

ステーベンス会長を筆頭に
副会長にはロベルト・ベッテガ
代表取締役社長にはアントニオジラウド
ゼネラルマネージャーにはカルチョメルカートの達人ルチアーノ・モッジ
この3巨頭が資金調達に関して絶対的信頼を置いているのがマーケティング部長ロミーガイなのです


ゼネラルマネージャーのモッジが選手調達のプロフェッショナルならばロミーガイは資金調達のスペシャリスト
つまり経営に関しての実質ナンバー1はこのロミーガイなのです
彼はユベントスをより発展させる為に日夜スポンサーとの契約を始めとするマーケティング業務に取り組んでいます


そんなロミーガイがユベントス経営の本質について語ってくれました



ロミー・ガイ
マーケティング部長
「我々は普通の企業とは異なる物を生み出しています。それは即ち感動を生み出す企業だということです。しかしサッカーファンに感動を与えるという事を意識すればその責任の重さを痛感せずにはいられません。我々は人々の心に商品を売るのですから」




ユベントスの経営を一手に引き受けるロミーガイ
クラブの心臓部ともいえる彼のビジネススタイルを同じマーケティング部の部下達はどの様に見ているのでしょうか



ストゥルミーア・ジゼッラ
マーケティング
「まず言えるのは彼は私達への要求が非常に厳しい人だと言う事です。それは私達にとってネガティブな事ではありません。彼が入ってくる前と同じ仕事をしていても、彼が加わった事で全く違う面が見えてくるのです。それはルーティンワークにおいても、スポット的な仕事においても共通した現象です。要求が高ければ高い程私達も頭を使わなくてはいけないからでしょう。それを引き出すのも彼の才能の一つだと思います」




マルコ・ファッソーネ
マーケティング
「イタリアサッカー界においてリーダーシップ的な役割を持つユベントスでロミーガイの様な成功を収めた人物と仕事が出来る。これは私にとってキャリアを積む上での貴重な経験になっています」




ロミーガイはユベントス生え抜きの社員ではありません
彼はユベントス株式会社にやってきた時、力を注ぐべき3つの改革を思い描きました
それは株式上場、スポンサー契約、テレビ放映権
しかしそこに到るまでには幾多の困難があったのです




ロミーガイ
「元々私は若い頃アメリカへと渡り、4年間アメリカンフットボールのプロ選手をしていました。その後にはスキーの指導者になった事もあります。今でこそスポーツを客観的に見る立場になっていますが、元はといえば私も表舞台に立つ側の一人だったのです。ただし残念ながら輝かしい栄光はありませんけどね。本当は選手として活躍したかったのですが、そこまでの才能は無かったのでしょう。しかし若い頃からスポーツが大好きだった私にとってその後の選択肢は実に明快でした。それはスポーツ界で仕事をしていくという事。その為スポーツを追いかけ続けるジャーナリストの仕事についたのです。まスポーツ界以外で仕事をしようとは一度も思った事はありませんけどね」




スポーツジャーナリストとしてアメリカで第2の人生を踏み出したロミーガイ
しかし彼に人生の転機が訪れます
トリノのスキー場で行われた大規模なイベントを取材した際、ある人物と運命の出会いをはたすのです




ロミーガイ
「そのイベントは当時アニエリ一族が強く望んだプロジェクトであり、その指揮を任されていたのがアントニオジラウドでした。そのイベントを通じ彼と出会った私はその後も彼との仕事を続け、広報の業務を頼まれる様になったのです。最初に携わったのはサッカーとは無縁の仕事、スキー場の宣伝でした。スキーはアニエリ家共通の趣味でしたから。そこで実績を残した私は数年後にユベントスの改革を任される様になったのです。あの時の出会いが全てですね」




ロミーガイがユベントスの業務に携わった1990年代のセリエAのクラブは、いわば試合をする為だけの組織でした



1990年代までのセリエAクラブ
・組織の中心は選手・監督・コーチ 数少ないスタッフで運営
・収入源・・・チケット・移籍金



現在の様に各部署が連携する企業体では無く、試合を行う為に必要なスタッフしか存在しなかったのです
そんな時代の資金調達は主にチケット収入と移籍収入。その為当時のクラブ経営は資金に乏しく常に不安定な物でした


しかしそんな時代にもユベントスはある巨大資本を後ろ盾に数々の栄光を勝ち取ってきました
それは世界有数のモーター企業、フィアット社のオーナーアニエリ家の存在でした
アニエリ一族は愛するクラブユベントスの勝利の為に、惜しむ事無く多額の資金援助を行っていたのです
しかしビジネスプランが全く存在しないクラブ経営は悪化の一途を辿ってしまいます


さらにユベントスは5年以上に渡りタイトルから見放され、低迷期を迎えていました(1985/1986シーズン以降スクデットなし)
ユベントスは改革の必要に迫られていたのです



丁度その頃あるクラブが新たな経営スタイルを築かんとしていました
同じイタリアのライバル、ミランです


ミランはクラブのオーナー、シルビオベルルスコーニミランオーナー・現イタリア首相=メディア王)が有するテレビ局を最大限利用し、選手を露出させる事でファンを獲得
メディア戦略によって繁栄を誇ったのです


この成功は改革を迫られていたユベントスに大きな影響を与えます




ロミーガイ
「当時ミランの経営スタイルに続くべきか否か各クラブが色々と議論を繰り返したのを覚えています。私はまだスキー場の広報という立場でしたが、その議論が行われている事を気にかけていました。我がユベントスミランを手本にすべきか悩んでいた様です。そしてアニエリ会長はフロントと議論し度重なる協議の末、ユベントスもスポーツにマーケティングを取り入れるべきだという結論に達した様です。そこで私に白羽の矢がたったのです。当時29歳だった私にとってこれは大抜擢でした。こうして1992年の12月1日から、私はユベントスで新しい仕事をする事になりました。とはいっても全くゼロからのスタートでした。何しろ当時はまだスポーツマーケティングという考え自体が何処にも無かったのですから」




ロミーガイがマーケティング業務を任されて程なく、ユベントスは経営陣を一新します
ベッテガ、ジラウド、モッジ、現在のユベントスの中枢である3巨頭を揃えたのです
しかしこの陣営の中にあっても、ロミーガイは独自の視点からユベントスでのビジネスを捉えていました




ロミーガイ
「私はサッカーをした事がありませんし、興味を持った事もありませんでした。それがかえって良かったのでしょう。冷静な視点から客観的な判断で様々なアプローチを実行する事が出来ましたから。時にチームへのファンとしての愛情はビジネスにおいてはマイナスに作用する事があります。私はモッジらとは違った視点でユベントスを見ていたのです。勿論今はユベンティーノですよ。ただし冷静さだけは今でも失わない様にしています。何と言っても私はユベントスでビジネスをする事が使命ですから」




マーケティングの導入に加え3巨頭が参入した事でチーム再建への準備を整えたユベントス
会社としての礎が築かれた時、ロミーガイは思い描いていた3つの改革に着手したのです